PIAZZA WANA
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ただいま介護中 「登録ヘルパー奮戦記」 by Utsunomiya
〜ライター兼登録ヘルパーが綴る、介護の現場よもやま話〜
第26回「福祉用具専門相談員講座を受講して」
ホームヘルパー2級資格を取得して、いつのまにやら12年もたってしまった。
この12年間で介護の世界は激変した。2000年に介護保険制度がスタートし、介護事業者が一気に増加。日本は誰もが認める超高齢社会となり、介護や認知症といったものへの世間の理解もかなり進んだ。
しかし、介護の世界がどんなに変わっても、私がヘルパー研修で勉強した内容は12年前のまま。その後、現任研修なども少しは受けたが、現行のヘルパー研修カリキュラムを見ると、「私が資格取得したときよりよほど充実してる・・・」と焦りを感じてしまう。
そんなこんなで日頃の勉強不足を解消し、改めてフレッシュな気持ちになろうと、「福祉用具専門相談員」講座に通ってみた。
12年前とは比べものにならないバリエーション
福祉用具専門相談員とは、福祉用具の選び方や使い方についてアドバイスする仕事で、主な働き場は福祉用具・介護用品の販売・レンタルをするショップなど。こうした事業所には、最低2名の福祉用具専門相談員を配置させる決まりがある。
講座は誰でも受講できるし、5日間40時間の講習を終了すれば、無試験で資格を取得できる。以前から興味はあったものの5日間連続の休みが取れず、なかなか取得できないでいた。しかし最近、ライターの仕事に余裕ができたのを幸いに、電車で30分ほどの教室に通うことができた。
講義の内容は福祉制度の概要から介護の実習まで幅広い。
受講者は20代から60代までさまざま。福祉系専門学校に通っている現役の学生さんか ら、早期退職して第2の人生をはじめようとする熟年男性まで、世代も職業もいろいろ。もちろん、介護施設や介護ショップに勤める人もいた。(しかし、ライターという職種はやはり私ひとり。どこに行っても珍しがられてしまう)
講義内容でなにより印象的だったのは、12年前に私がヘルパー講座を受けたときより、はるかに福祉用具の種類や数が充実し、使い方を教える講義が充実していること。
この講座ではリフトを使った車いすからベッドへの移乗を実習した。お恥ずかしいことにリフトで介助するのも自分で試すのも、実はこれが初めて。ヘルパー講習では教えてもらえなかったし、その後訪問した利用者宅にもなかった。(リフト設置は費用もかかるし、リフォーム工事の規模も大きくなる。設置家庭が少ないのはご� ��当然のことだ)
ライターの仕事でリフトという福祉機器はもちろん知っていたし、利用者の症状に合わせてスリングシートを選ぶことも知識として知っていた。しかし、知識として知っていることと実際に扱ってみることは、料理本を読むのと実際に料理をつくってみるのと同じくらい落差がある。
また、12年前は「なるべく福祉用具を購入せず、利用者さんの自宅にあるものを活用して介護をしましょう」という風潮があった。介護保険制度もなく、介護ショップなんて街で見かけたこともない時代。年金生活のお年寄りに経済的な負担をかけまいとする、しごく常識的なスタンスだった。
ところが、時代は変わった。
今なら介護保険を使えば1割負担で購入できる。車いすや介護ベッドといった高価な福祉機器も、以前� ��りはるかに豊富なバリエーションの中から、利用者が好きなものを選んでレンタルできる。メーカー間の競争も激しくなり、快適なだけでなく見た目もオシャレなものが発売されるようになった。
もちろん、措置制度時代に比べ、高齢者の実質負担が増えているケースも少なくないわけだが、選択肢が広がることは悪いことではない。
5日間、新しい知識を吸収し、気持ちもリフレッシュできた。
次は、この知識をどうやって生かしていくか。介護の勉強に終わりはないと、つくづく思う。
第25回 ユニバーサルデザインを考える(その2)
ユニバーサルデザインが解決しなくてはいけない広い意味でのバリア(障壁)に、「あり余る時間」「過干渉・没干渉」「インフラの不整備」があり、前回は「あり余る時間」を利用者の方々がどう過ごされているかを書いた。
今回は「過干渉・没干渉」に象徴される人間関係について考えたい。
過干渉・没干渉の蔭に思惑あり
介護が必要なお年寄りを目の前にして、家族の中の一体だれがその作業を担当するのか?
一般的に同居する家族がその役目を担当するが、そのあまりに大変な作業を目にして、同居していない親族が没干渉気味になるケースがよくある。
たとえば、ひとり暮らしや夫婦で老々介護するご家庭では、息子夫婦が全� �寄りつかなくなるケースがある。お中元やお歳暮はきっちり贈ってくるのに、顔は見せない。聞けば1年に1度敬老の日だけ孫を連れてやって来るという。敬老の日に老親の家を訪れれば義務を果たしたと、この息子さん夫婦は考えているのかもしれない。敬老の日なんて、やっぱりない方がいいのではないだろうか。
息子が介護をする場合、仕事との両立が必須だ。「嫁に介護をさせる」という発想は、今の30代40代には少ない。無理強いすれば家庭が壊れる。そんな彼らが目を向ける先は、やはり「プロの介護」。直接ヘルパーに「毎日来てくれないかなぁ」と交渉する息子もいた。彼は病気で両足切断された父親Pさんの目の前で、
「親父のワガママは無視してください。キリがないから」
と言ったが、私はPさんがワガママ� �は1度も感じたことがなかった。彼は久々に会う父親が予想以上に弱っている様子を見て、こう考えたのかもしれない。
「弱ったなぁ。俺や嫁さんは仕事があるから介護できないよ。兄貴たちは適当な理由で介護から逃げて、俺に任せきるつもりじゃないだろうな。ここはとにかくプロを掻き集めて乗り切らないと」
こうした息子たちの思惑はともかく、プロの手はどんどん借りてほしい。でないと、家族の介護地獄はいつまでたってもなくならない。
全体に、私が訪問したご家庭はなぜか息子さんしかいないケースが多く、娘さんがいればまた違った展開があるのかもしれない。が、これこそ介護を女性に押し付けてきた日本社会の悪習慣。「美風」という便利な言葉で片付けられてきた女たちの苦労を、次の世代で絶対に繰 り返してはいけないと思う。
一方、介護で家族が過干渉になるケースは私たちヘルパーの出る幕がなく、あまりお目にかかる機会がない。むしろ、ヘルパー自身があれもこれもとお年寄りの世話を焼きすぎるケースが少ないながらも存在する。
介護の基本は「残存能力を活かす」こと。つまり、お年寄りの残った能力を失わせないためにも、できることは自分でやっていただくのが原則だ。日常生活でできる範囲で身体を動かすことがリハビリにもつながるし、それが本人の精神的な支えにもなる。
ところが、ヘルパーが1対1で要介護老人と向き合うと、本人ができるところまでつい世話を焼いてしまう。善意や親切心から出た行為なのだが、やり過ぎはよくない。
自宅の電話番号を教えてしまったために朝に晩に利用者か� ��電話がかかってくるようになり、つい情にほだされて夜中でもヘルパーが駆けつける例もあるという。こんなことが続くと、やがてヘルパー自身も疲れ果て、自ら希望して担当から外れていく。ところが、利用者は次のヘルパーにも同じことを要求してしまう。「前のヘルパーさんがしてくれたから、当然次のヘルパーさんもしてくれる」と利用者が思い込むのもムリはない。
これこそ過干渉が生んだ弊害ではないだろうか。
人間関係のほどよい距離を保つのはむずかしい。
しかしつくづく思うのは、若い頃から配偶者や家族に依存していた人ほど、介護者に依存するケースが多いということ。人生のたそがれ時もできる限り自立して過ごしたい。そのためには早いうちからの精神的自立が欠かせないと、しみじみ思う。
第24回 ユニバーサルデザインを考える(その1)
「ユニバーサルデザイン」という言葉が定着して早や数年。メーカーの新商品開発の切り口に欠かせない、一大コンセプトに成長した。
ライターという仕事がらメーカーのコピーを書くこともあるのだが、そんな折りユニバーサルデザインに関して面白い考え方を耳にした。ユニバーサルデザインが取り除くバリア(障壁)はなにも段差や動かない関節ばかりではない。寝たきりのお年寄りがもて余す「あり余る時間」。親から子、子から親への「過干渉や没干渉」。病院に行きたくても近所にないので行けない「インフラの不整備」。こういったものも、社会的・心理的バリアなのだという。
こうした発想の転換から、ライフスタイルを変えるような画期的な発明 が生まれるのかもしれない。そんな夢を抱きながら、現状のバリアを考えてみた。
「あり余る時間」をいかに過ごすか
寝たきりでなくても、時間を持て余す人は多い。
若い頃は忙しく立ち働いていた人も、足腰が弱るとできる作業が少なくなり、必然的にヒマになる。多趣味だった人も、ベッドの上でできる趣味となると限られてくるだろう。かといって終日ボンヤリ過ごしてばかりだと、痴呆の恐怖が目の前に迫るし、なにより退屈でしかたがない。そんなわけで上半身を起こせる人や痴呆の症状がない人は、できる範囲の趣味を持ち、有意義な時間を過ごそうと努力されている。
70代の男性Kさんの趣味は囲碁と俳句。囲碁の本を片手に、NHKの対局中継を見ながら時間を過ごされる。俳句もやはりNHKの衛星放� ��で楽しまれており、視聴率は低くてもこうした番組には不可欠な需要があると感じさせられる。
60代の女性Lさんは、日がな1日テレビを見て過ごされる。見る番組は幅広い。ドラマ、ワイドショー、プロ野球中継から、旅行番組(それも国内のごく近場が喜ばれる。昔旅行したことがある場所なら、懐かしさが募って一層うれしいようだ)まで、いつも見たい番組を探してリモコンでチャンネルを替えておられる。阪神タイガースの試合結果や芸能人のスキャンダル情報など、私が訪問して教えていただくことも多い。
正月明けの訪問のとき、「紅白歌合戦、よかったわぁ」とうれしそうにおっしゃるLさんを見て、NHKの紅白歌合戦とはこうした世代に支持されているのだなと改めて思い知ったものだ。
同じく60代の女性Mさん は切り紙細工が趣味だ。折り紙で花や草木を切ったり折ったりし、トレイに配置して糊づけするのだが、なかなか繊細で手間のかかる作業だ。「作り方、教えてあげるわよ」と何度か声をかけられたが、私にその時間がなく、おつきあいできないのが心苦しい。
最近、区民センターで障害者の創作作品展が開かれ、Mさんも切り紙細工を出展された。外出できないMさんの代わりに息子さんが立ち寄られ、展示の様子をデジカメに収めて見せてくれた、と笑顔で報告してくださった。
いろんな趣味を見せていただいて、自分の老後を想像することもある。
私は若い頃から多趣味な方だが、身体がいうことをきかなくなってもできる趣味というのは限られてくる。読書。ビデオ鑑賞。音楽。スポーツ中継の観戦。パソコンももっと進 化したカタチで触れ合えるかもしれない。パソコンができればもの書きもできるので、ひょっとしたら仕事ができるかも(!)しれない。双方向映像配信技術も飛躍的に進歩しているだろうから、自宅にいながら老人ホームの茶話会のようなこともできるかも。
思いつくことはさまざまだが、要は趣味を楽しもうと思う気力があるかどうか。そして、経済的な余裕があるかどうかだ。お金をかけない趣味ももちろんあるが、「あり余る時間」というバリアを超えるには、本人の気力がなによりも大切なのではないだろうか。
第23回 福祉用具あれこれ(その2)
いろんな福祉用具が販売されてはいるものの、高齢者ひとりひとりに合ったものは意外に少ないという話を前回に書いた。
その一方、お年寄りや家族は自分たちが少しでも快適に過ごせるように、いろいろ工夫されているケースを目にする。たとえば・・・
身の回りの品で創意工夫も
自力で動けない利用者が少し離れた場所のモノを取る際に使用する「リーチャー」と呼ばれる福祉用具がある。オモチャで見かけるマジックハンドみたいなものだ。
リーチャーを初めてカタログで見たとき、「なるほど」と感心した。いくら自宅とはいえ、なんでもかんでも手の届く範囲に置いておけないし、軽いモノならリーチャーがあれば便利なはず・・・と思っていたと ころ、ある利用者はクリーニングの針金ハンガーを捻じ曲げ、オリジナルのリーチャーを開発されていた。竿にかける部分の曲がり具合が、モノを引っ掛けるのにちょうどいいそうだ。彼女は針金ハンガーを使って新聞やひざ掛けを引き寄せ、ご自分が気に入った場所に置いておかれる。その創意と工夫に思わず唸ってしまった。
慢性の病気をもつお年寄りの場合、服用する薬の量がハンパではない。以前、訪問先で2週間分の薬を仕分けしていたが、優に1時間はかかる作業だった。しかも朝食後・昼食後・夕食後・就寝前と、4回に分けて4〜5種類の薬を飲み分けねばならず、食後の薬をお渡しするのに介護者はいつも手間取ってしまう。
そんな手間を省いてくれるのが、1日4回×1週間分の薬の仕分けと保管ができる薬ボッ クス。最近は一般の通信販売でも見かけるようになった。薬の種類は病状に応じて変わるので、お年寄りや家族も把握していないケースがあり、ひと目見て飲む薬がわかるボックスはとても重宝。錠剤はあらかじめアルミケースから出しておいてあげれば、誤嚥も防げる。
ボックスをわざわざ購入するとお金がかかるので、私は訪問先でお酒を飲むお猪口を利用させていただいた。お猪口を4個並べて、「朝」「昼」「夕」「夜」と書いたシールを貼り、それぞれに薬を仕分けする。1日でお猪口は空になるが、翌日訪問したヘルパーさんが同じように仕分けをして下さればOK。飲み忘れも一目瞭然で、健康管理にも役に立った。
歩行困難なお年寄りの場合、部屋や廊下に手すりがあるとないとでは行動範囲に大きな差が出る。� ��ころが、日本の住宅事情では歩行用の手すりをつけられない間取りも少なくない。そんなとき、お年寄りが家具の取っ手を利用して立ち上がったり、歩いたりされるケースを見かける。家具から家具へと次々につかまり立ちして、ゆっくりと進む様子は、歩きはじめたばかりの幼児の姿に少し似ている。
あるご家庭では、家具の取っ手にタオルハンガーの大きな輪を取り付け、お年寄りが掴みやすいように工夫されていた。ベッドからトイレに向かうとき、まずベッドのサイドレールを持って座り、目の前のタンスの取っ手を持ってグイッと立ち上がる。そこから先は壁を伝ってトイレへ。日本の狭い住宅事情が逆に幸いした(?)例かもしれない。
私自身、慢性の腰痛で立ち上がるのも困難なときがある。そんなとき、リーチ� �ーや手すりがあればどんなに助かるかと、つい想像してしまう。イスやテーブルに手をつき、必死で立ち上がろうとする自分の姿は、訪問先でお見かけするお年寄りの姿とまさに同じ。異なるのは私の腰痛は3,4日休めばマシになるが、お年寄りのからだのつらさは1年365日休みなく、これから先もずっと続くこと。そう考えると、からだの痛みを和らげる福祉用具、「ああ、ラクになった」と思える福祉用具の開発は必要不可欠だ。
介護に関わる者として、そして私自身慢性の痛みを抱える者として、「からだがラクできる」ための技術革新が、一歩でも前進することを願ってやまない。
第22回 福祉用具あれこれ(その1)
先日、新聞にこんな内容の記事が載っていた。
「ある会社が点字付きのキッチンタイマーを開発した。ところが、視覚障害者のうち点字が読めるのは約15%と指摘され、勉強不足を痛感する結果となった」
さもありなん、と思わせる内容だ。
身体障害者や高齢者向けの福祉用具は、数え切れないほど市場に出回っている。ヘルパー研修では福祉用具のことをあまり教えてもらえなかったが、カタログを見ると「こんなものまであるの?」と思わせる充実ぶりだ。しかし、身体障害者や高齢者の症状は各人各様。その人に合う福祉用具を簡単に手に入れるのは、現状ではなかなか難しい。
身近なモノこそ求められている
ベッドや車いすなど大型の福祉用具� �テレビコマーシャルでも見かけるし、体験教室などもあって、比較的世間への認知度が高い。個人で購入するには単価が高いが、レンタル制度も充実しており、必要に迫られて導入する人は多いだろう。
しかし、日常生活での細々としたモノは軽視されやすく、ついあきらめの境地に陥ってしまう。
たとえば、靴と靴下。
日本人に多い脳血管障害で片マヒが残った利用者の場合、片足だけが異常にむくんでいる場合があり、むくんだ片足だけ靴を履くのに苦労する。片足ずつサイズ違いを指定できる福祉用の靴もあるが、このサービスを知っている利用者は少ないのではないだろうか。
むくんだ足には靴下のゴムも辛いと訴え、靴下の足首部分をハサミで梳いて履いておられる方もいた。細かなゴムが露出し、見た目にはカ� ��コ悪いが、からだの苦痛には代えられない。ゴムがゆるく、それでいて簡単には脱げない靴下がどこかにないものかと思う。
慢性関節リウマチの利用者の場合、指先がほとんど使えない。以前、指先に力がなくても手の甲で使えるスプーンをオススメし、大変喜んでいただいたことがあった。その利用者が最初に気にされたことは「スプーンの重さ」だった。健康な人間ならスプーンの重さなんて気にならない。しかし、リウマチに苦しむ利用者には、スプーンの重さが自力で食事できるかどうか、瀬戸際の重要ポイントなのだ。知識では知っていたが、目の前にいる人から突きつけられると改めて健常者と身障者の視点の違いを実感させられた。
必要は発明の母というが、10人の利用者がいれば10通りの福祉用具が必要な気が� �る。
人類が二足歩行を始め、両手にモノを持てるようになって以来、人はモノを作り続けてきた。コップひとつとっても、人類の歴史に匹敵する歴史がそこにはきっとあるのだろう。それに比べて、福祉用具の歴史はまだまだ始まったばかり。高齢者や障害者がラクできるモノが、今後もどんどん生まれてくることを期待している。
第21回 利用者は海外旅行禁止?
「介護保険てしょうむないなぁ。あんな制度、なかったらええねん」
久々にわが家を訪れた私の母がこんなことを言い出した。理由を尋ねると、母は父方の親戚の話を持ち出した。